正直に言う。
私は一度、心も体も限界まですり減って、会社を辞めた。いや、辞めたというより、辞めざるを得ないところまで、追い詰められていた。
あの会社から抜け出したのは、最後の最後で振り絞った、自分の力だ。でも、そこから次の場所までは、いろいろな人の力を借りて、たどり着いた。今日は、その話をする。
成長したくて、ベンチャーを選んだ
学生の頃の私は、若かった。
「成長したい」「実力をつけたい」。その気持ちだけで、最初の就職先は、ベンチャー一択だった。厳しい環境に身を置けば、きっと早く一人前になれる。そう信じていた。
そして、無事に入社した。希望に、満ちていたと思う。
最初の仕事は、終わらない通帳の入力だった
入社して、最初に任された仕事。それは、山のように積まれた通帳の束を、ひたすらデータ入力することだった。
どうやら、ここ数年分の通帳のデータが、会計システムに入っていないらしい。その入力を、新人の私が命じられた。
早速意気揚々と着手したが、これが、いつまで経っても終わらない。とにかく、量が膨大なのだ。来る日も来る日も、数字を打ち込み続けた。
そして、打ち込みながら、だんだんと気づいていった。この通帳の山は、たまたま溜まっていたわけじゃない。前任の経理が、これを放り出して、逃げ出した痕跡なのだ、と。
そういう目で見ると、おかしな点は、ほかにもいくつも見つかった。手のつけられていない処理。引き継がれていない、宙ぶらりんの作業。いたるところに、前任者が「もう無理だ」と投げ出していった跡が、残っていた。嫌な予感は、増す一方だった。
入社して少し経った頃、言われた。
「まだ終わらないのか。お前の代わりはいくらでもいるんだぞ。なんでこんな簡単なことが、さっさと終わらないんだ」
希望に満ちていたはずの何かが、この時、最初に少しだけ、欠けた気がする。
血の涙で回る会社だった
その会社は、社長がワンマンだった。社員の血の涙でできているような会社だった。
常に実力を示し続ける必要があった。成果を求められ、できて当然、できなければゴミ。残業代が出ようが出まいが、休もうが休むまいが、終わらない仕事を、ただ終わらせろと詰められる。そういう会社だった。詳しく書き出すと、それだけで記事がいくつも書けてしまうので、今日はやめておく。
そんな場所だったから、人は、どんどん辞めていった。同じ時期に入った総務の子も、その一人だ。私にとっては、唯一気を許せる仲間だった。その子もしばらくは歯を食いしばって頑張っていたが、社長から苛烈に詰められ続けた末に、力尽きるように辞めていった。理不尽な環境で隣り合って踏ん張った時間は、不思議と、人と人の結束を硬くする。あの子とは、辞めた後も、連絡を取り合う仲になった。
それでも、私は辞めなかった。経理という仕事が、やりたかったからだ。数字に向き合うこの仕事に、食らいついていきたかった。やがて、総務も労務も私に回ってきて、気がつけば、管理部門の仕事を何もかも、一人で抱えていた。それでも、ただ捌き続けた。昼夜問わず、休みも返上で働いた。
毎日、ボロボロになりながら働いた。まだ、かろうじて立っていた。
オフィスの引っ越しが、決定打になった
ある日、業績拡大に伴って、オフィスの引っ越しが決まった。
社長は言った。
「今回は引越し業者を雇わない。お前らでやれ」
数名で手分けしてやることになった。特別手当が出るという。お金が出るならやるか、と私も引き受けた。
就業時間後、まだ仕事の残る頭で、書類や備品を段ボールに詰めていく。借りてきたトラックに積んで、新しいオフィスへ運ぶ。ただ物を運ぶだけなら、まだよかった。移転先でのネットワークの配線を一本ずつ繋ぎ直し、翌朝、何事もなかったように営業が始められる状態にするまでが、仕事だった。
段ボールと配線に埋もれて、黙々と手を動かした。ふと窓の外を見たら、空が、白み始めていた。気がつけば、朝になっていた。
そのまま、いつもの業務が始まる。眠っていない頭で、私は自分のデスクに座った。
「会社に迷惑をかけるな」で、心が折れた
その数日後、私はひどい風邪をひいた。
あの引っ越しの疲労が、ずっと抜けないまま、溜まっていたのだと思う。熱が下がらず、3日ほど、布団から動けなかった。
それでも、休んだ後ろめたさだけは、しっかりあった。それに、休んだ分の仕事も溜まっているはずだ。だから、きちんと病院に行って診断書をもらい、まだ重い体を引きずって、出社した。これで、少しは無茶な業務をしていると分かってもらえる。心のどこかで、そう期待していたのかもしれない。
出社した私に、社長は、こう言った。
「あんまり会社に迷惑をかけるなよ」
頭の中で、何かが、すっと冷えていくのが分かった。
そして、後から知った。あの引っ越しの特別手当。一緒に作業した他のメンバーには、ちゃんと出ていた。でも、私の分だけは、風邪で寝込んでいる間に、いつのまにか有耶無耶になっていた。誰も、その話を蒸し返さなかった。まるで、休んだことへの、罰のように。
会社のために徹夜で働いて、その無理がたたって倒れた。診断書まで持って、はってでも出てきた。それでも返ってきたのは、暴言と、取り上げられた手当だった。怒りも、悲しみも、もう湧いてこなかった。ただ、すとんと、何かが終わった。
もう、無理だ。そう悟った。
あれだけ食らいついた仕事だったのに。あんなに、辞めたくなかったのに。
でも、考えてしまった。このまま、ここにいたら、どうなるのか。心も体も、遠からず壊れる。仮に壊れずに耐えたとして、この先10年、20年、奴隷のように使われ続けるだけだ。その先に、私のキャリアも、未来も、何ひとつ見えない。
ここに居続けることは、自分の未来が、静かに閉ざされていくことだった。だから、辞める以外の道は、もう、残っていなかった。
辞表を出した後、私は放心していた
私は辞表を出して、会社を後にした。
そこからしばらく、放心状態の無職だった。
働かなければ生きていけない。それは、わかっている。でも、主体的に動く元気は、もう残っていなかった。
そんな私に、手を差し伸べてくれたのが、先に辞めていた、あの総務の子だった。無気力なまま連絡した私に、その子は「自分も使ったから」と、一つの転職エージェントを教えてくれた。同じ会社で踏ん張ったあの子の言葉だから、すんなり信じられた。
私は、そのエージェントに、全てを丸投げした。担当者は、私の代わりに希望に合う求人を探し、面接のスケジュールを調整し、危ない会社をあらかじめフィルターにかけて、今の会社を、目の前に差し出してくれた。
思考停止していた私がやったことと言えば、用意された面接に向かったことくらいだ。
紙とFAXの、健全な会社
何かの縁で、エージェントは今の会社を紹介してくれた。
紙とFAXの会社だった。世間的には、お世辞にも先進的とは言えない職場だ。
でも、当時の私には、恐ろしいほど好条件の会社に見えた。そして実際、入ってみると、本当に健全な職場だった。人を、ちゃんと人として扱ってくれる。関わる人にきちんと血が通っている。それだけのことが、あの頃の私には、何より眩しかった。
私を拾ってくれた、A部長代理
その面接で、私を採用してくれたのが、A部長代理(給与担当)だ。
寡黙で、職人気質。今では私の上司であり、労務の師匠でもある人だ。あの面接の時は、もちろん、そんな先のことなんて、知る由もなかったけれど。
正直、業務のやり方には、不満もある。ブツブツ言うことも、ある。
それでも、今こうして、健全に笑いながら仕事ができているのは、あの時、拾ってもらったからだ。ボロボロだった私を採用してくれた恩は、忘れていない。
A部長代理のレガシーを尊重しつつ、私が新しいことに取り組もうとしているのも、その気持ちが、根っこにあるからだ。
もし今、あの頃の私と同じ場所にいる人へ
前職のこと、そして、辞めてから今の会社に入るまで、まだまだ書ききれない話が山のようにある。それは、おいおい書いていこうと思う。
ただ、一つだけ。ああいう場所、つまりブラック企業というものは、最初のうちは、熱量で走れてしまう。成長している実感も、ちゃんとある。でも、その熱が、自分自身をすり減らしていることには、なかなか気づけない。気づいた時には、心が、もう元には戻らないところまで来ていることがある。
私は、運よく、そうなる手前で抜けられた。先に逃げた仲間がいて、手を貸してくれる人たちがいて、最後に、拾ってくれる場所があった。今こうして、健全に笑いながら働けているのが、その証拠だ。
だから、これだけは言える。あの地獄からでも、ちゃんと抜けられる。
あの時の私は、自分で求人を探す気力も、もうほとんど残っていなかった。退職を切り出すのだって、限界だった。心が壊れる、その本当にギリギリのところで踏みとどまって、最後の気力を振り絞って、なんとか辞表を出した。あれは、今思い返しても、よく成し得たと思う。ほんの少しタイミングがずれていたら、その力さえ、出せなかったかもしれない。
だからこそ、思う。あの最後の気力すら、もう残っていない人も、きっといる。求人を探すのも、辞表を出すのも、自分には到底できない——そこまで追い詰められた人のために、間に立って動いてくれる人たちがいる。今の私なら、それを知っている。その話は、また改めて、別の記事できちんと書きたいと思う。
もし今、あの頃の私と同じ場所にいる人がいたら。どうか、壊れてしまう前に。
「総務・労務・経理で悩むあなたに、現場から届けます。」
次はこの話をする
一緒に学んで、一緒に前へ〜管理部門で奮闘するあなたへ、私がここでやりたいこと〜
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