正直に言う。
ある日、A部長代理(給与担当)に、こう頼まれた。
「凪、悪いけど、銀行で新札に替えてきてくれるか」
新札。ピン札のことだ。私は一瞬、なんでだろう、と思った。令和の、キャッシュレスがこれだけ進んだ時代に、わざわざ新札を。
そう、うちの会社では、A部長代理が現金の管理をしている。給与は振込でも、現金が必要な場面は、なくならない。今日は、その「現金管理」という、地味で、でも意外と奥の深い仕事の話をする。
なぜ、現金が要るのか
振込で済むこの時代に、なぜ現金を、それも新札を用意するのか。理由を聞いて、なるほどと思った。
たとえば、社員の結婚のお祝いや、出産祝い。あるいは、ご不幸があった時の香典。そして、社内イベントの賞金。こういう、人の節目に関わるお金は、振込ではなく、やはり現金で手渡すことが多い。
そして、お祝い事には新札を使うのが、昔ながらのマナーとされる。「この日のために、わざわざ用意しました」という気持ちの表れ、という考え方だ。逆に、香典には新札を避けるという慣習もある。「不幸を予期して準備していた」と取られないように、という配慮だそうだ(このあたりは地域や世代によって考え方に幅がある)。お金そのものだけでなく、その「状態」にまで、意味が宿るのは面白い。
だから現金管理の担当は、こういう場面に備えて、きれいなお札を、ある程度ストックしておく必要がある。
両替は、地味に奥が深い
では、新札はどう手に入れるか。銀行で両替してもらうことになる。
ここが、地味に奥が深い。今、両替には手数料がかかるのが当たり前になっている。何枚までなら無料か、何枚を超えると、いくらかかるのか。これが銀行によって違う。両替専用のカードを使えば、一定枚数まで無料、という仕組みを設けているところもある。どこで、どの方法で替えれば一番無駄がないか。新札を数枚用意するだけでも、考えることはある。
——と、ここまでは、まだ序の口だ。そうやって用意した現金は、ただ金庫に放り込んでおけばいいわけじゃない。その先に、もっと地味で、もっと豆な作業が待っている。
A部長代理の「金種表」
A部長代理は、慶弔金などに備えて、会社の小口の現金を管理している。帰宅する時は、必ず金庫にしまう。その徹底ぶりは、見ていて気持ちがいいくらいだ。
その管理に、A部長代理は「金種表」というものをつけている。
金種表。聞き慣れない言葉かもしれない。簡単に言うと、手元の現金を、お札や硬貨の種類ごとに「一万円札が何枚、五千円札が何枚、千円札が何枚……」と数えて、書き出した表のことだ。合計金額だけでなく、どの種類が何枚あるかまで、ぜんぶ見えるようにする。レジ締めや、小口現金の管理で使われる、現金管理の基本の道具だ。
そして、A部長代理の金種表は、ひと工夫ある。新しいお札と、古いお札を、2つに分けて記録しているのだ。
理由は、さっきの話につながる。お祝い事には、新札が要る。だから「今、きれいな新札が何枚あるか」を、常に把握しておかないといけない。いざという時に「新札の手持ちがない、今から両替に走る」では、間に合わないからだ。だから、同じ一万円でも、新札と古いお札を分けて数える。おそろしく、豆な作業である。
正直に言う。私はこれを、紙でやっているのを見て、思った。——せめて、エクセルにしてくれ、と。
金種表は、エクセルととても相性がいい。「枚数」を入れる欄を作って、あとは掛け算と足し算の式を仕込んでおけば、枚数を打ち込むだけで合計が自動で出る。計算ミスもない。なのに、A部長代理のそれは、手書きで、電卓で、一枚一枚。職人の手仕事だ。尊い。尊いけれど、これは私がいつか引き継ぐ仕事でもある。その時は——心に決めている。せめて、エクセルにするぞ、と。
そして、本当に難しいのは「そのお金が、何のお金か」
枚数を数えるのが豆な作業なら、もっと神経を使うことがある。「そのお金が、税務上どういう扱いになるのか」だ。
同じ「会社が渡す現金」でも、名目によって、扱いがまるで違う。たとえば、社内イベントの「優勝賞金」。一見ただのお楽しみだが、現金で渡す賞金は、給与として課税される場合がある。国税庁の考え方では、記念品のような「現物」ではなく、現金や商品券で支給すると、給与扱いになるとされている。つまり源泉徴収の対象になりうる。「ちょっとした賞金のつもり」が、給与計算に跳ね返ってくるのだ。詳しい考え方は、国税庁のタックスアンサーにまとまっている。
一方、香典や結婚祝いは、扱いが違う。従業員やその家族のお祝い・ご不幸に際して、会社が一定の基準に従って支給するお金は、福利厚生費として扱えるとされている。受け取った社員も、常識的な範囲なら、原則として税金はかからない。ただし「あらかじめ慶弔規定を設け、全社員を対象に、社会通念上で相当な金額」という条件がつく。これを外れると、福利厚生費と認められない可能性が出てくる(国税庁のタックスアンサー参照)。
同じ「会社が用意する現金」なのに、賞金は給与に化けるかもしれず、慶弔金は条件を満たせば非課税になる。名目ひとつで、運命が分かれる。私もこのあたりは毎回ヒヤッとするので、迷ったら必ず顧問の税理士に確認している。
お札を数えるだけの仕事じゃない
こうして見ると、現金管理という仕事の見え方が、少し変わってこないだろうか。
新札を用意する。両替の手数料を抑える。金種表で、新札と古いお札を分けて、一枚ずつ数える。金庫の中身を、一円単位で合わせる。どれも地味な作業だ。でも、その一枚一枚の向こうには、「これは何のお金で、税務上どう扱うべきか」という判断がついて回っている。
A部長代理が現金をきっちり握っているのは、ただ几帳面だからではない。お金の「名目」を見分ける目が要る仕事だから、なのだと思う。現金管理は、庶務のようでいて、その実、税務の入り口に立っている。
「凪、新札に替えてきてくれるか」。あの何気ない一言の裏にも、たぶん、いろんな判断が積もっている。そう思いながら、私は今日も、銀行へ向かう。——そして、いつか引き継ぐ日のために、こっそりエクセルの金種表を、作り始めている。
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